ブックタイトルKentaiNEWSvol222

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概要

KentaiNEWSvol222

11現在はベンチプレスの日×2、スクワットの日×2、デッドリフトの日×1で回しながらトレーニングしている。昭和大学フィットネスボディビルディングクラブの全貌。して教鞭をとっておられる蜂須博士ですが、いわゆる負けず嫌いなタイプでもあるようです。Hパワーリフティングの大会で、スクワットが浅くて判定で失敗にされたりすると「なにくそっ!!」っていう気になるんですよね。でも、この『負けない気持ち』が大切だと思っています。『ボディビルダーの筋肉は見せ物で、力は無いんでしょ』って言われるのがしゃくなのでパワーリフティングをやっています。『力はあるけど実践では弱いんじゃないの?』と言われるのがイヤなので60歳のときに柔道で三段を取得しました!昭和大学運動科学研究所のスポーツ循環器の医師が、日体大ラグビー部の学生の呼吸・循環機能を調べており、高齢のアスリートとの違いを見たいということで、昨年12月末に呼吸・循環機能の検査を受けたそうです。その結果:体内スキャンでは体脂肪4.9%、血管の弾力性(柔らかさ)は20歳の平均値、エアロバイクの負荷による呼気二酸化炭素ガスと心拍数の関係の持久力は日体大ラグビー部中、一番低いグループにあたるということでした。「カラダを鍛えることで、心も、内面も、若さを保つ」ということをまさに体現されている蜂須博士。「負けてたまるか!!」という精神にこそ「元気の源」があるように感じました。ありがとうございました!うものが盛んでした。帰国後直ぐには行動しませんでしたが、37~38歳の頃に一念発起し会社の同志でお金を出し合ってベンチセットを購入し、昼休みにベンチを始めました。その2年後くらいに今度は会社が予算を作ってくれ、もう少し器具を買い足し『フィットネスクラブ』というクラブを作って、会員は40名くらいになりました。Mすると学生の頃は柔道を少しやっていただけで、トレーニングを始めたのはかなりあとになってからなんですね。どんな理由ではじめられて、その後どうなりましたか?H子供の頃に『たくましいカラダ』への憧れはあったんですよ。仕事も一生懸命やってきて、そろそろ自分のやりたいことをやっておきたいという気持ちが強くなったからですね。そのクラブに大学でアメフトをやっていた新人が入部し、ベンチも100kg挙げるような人で、やがてその人がボディビル大会に出場したんです。クラブのみんなで応援に行ったんですがそのときに『俺も行けるな!』と感じて、42歳で大会デビューしました!神奈川のマスターズでしたが惨敗しました。そこで非常に悔しい思いをしたので1年間みっちりトレーニングをして翌年に優勝し雪辱を晴らしました!M初出場での惨敗から、わずか1年で優勝とは凄いですね。パワーリフティングへも参戦されたのですか?H神奈川で優勝して『優勝者は同じ大会に出ない』という暗黙のルールがあるといわれ、会社のクラブで登録して社会人ボディビル大会に出場していました。ところが家内から『ボディビル禁止令』が発令されたんですよ!やはり減量などで必死になり過ぎていたんでしょうね。東京の高校へ行き、帰ってからも40頭乳搾り、それから勉強してという生活をしていました。Mご苦労されたんですね。そして、いよいよそこから薬学へ進んだんですね。Hそうです。昭和大学へ行き薬学を勉強しました。しかし私は薬学部が出来てまだ5年目の学生で、卒業するときに先輩で企業に勤めた人がいなかったんですよ。大学院へ進み薬理学研究部でアルバイトで行っていた会社から誘われる形で就職しました。Mその大学時代などに運動を始められたのでしょうか?H高校のときには牛の乳搾りなどで運動どころではなかったので、大学へ入ったらレスリングをやりたいと思っていました。しかし、昭和大学にはレスリング部はなく『柔道部があるからそこへ入れ』と言われて柔道をしばらくやりました。運動への意識が高まったのは30歳のときに博士号の取得に伴いアメリカへ留学したときですね。健康意識の高まりの最中で『運動=エクササイズ』から派生した『◎◎サイズ』とい大会出場がないと普段のトレーニングにも力が入らないので、致し方なくボディビル以外のものを探して湘南ベンチ大会に行き着きました。45歳のときに67・5kgクラスに出場して117・5kgを挙げ4位に入りました。その後もずっとベンチ大会やノーギアのパワーリフティング大会に出場し、2001年には第6回神奈川県ノーギアパワーリフティング選手権大会に65・4kgで出場し、スクワット167・5kg、ベンチ125kg、デッドリフト202・5kgのトータル495kgで優勝し最優秀選手賞も獲得しました!Mそれは蜂須先生が51歳、トレーニングをはじめられて14~ 5年、ベンチ大会に出場されて6年弱です!もの凄い進歩ですね。するとその後はパワーリフティング一本だったのですか?H実は55歳になったときに名古屋に単身赴任させられたんですが、そのときに内緒で愛知のボディビル大会に出場して優勝したんですよ。その翌年に日本クラス別のマスターズでも優勝し、今度は東アジアの大会が山口であって、そこに出場しなくてはいけないという運びになりました。当初、家内には内緒で出ていたのですが、夏場に帰省した際に『どうしてそんなに日焼けしているの?』と問いただされてバレてしまいました!(笑)それからは『そんなに好きなら仕方ない』ということで許してもらっています。Mその山口の大会でも優勝されているんですね。そのときに面白いエピソードがあったとか?H優勝してトロフィーを授与されるときにプレゼンテーターが『Strange!?』って小声で言うんですよ。『えっ!!どうして?』って思ったのですが、家内に内緒で出る為に顔と手を日焼けしないように気を付けていたので、真っ黒に日焼けしているカラダに比べて顔と手が真っ白だったんです。それが非常に不思議に見えたようです(笑)58歳で企業を退社、その後昭和大学の教授と家族に内緒で大会に出場「負けない気持ち」が大切●岡部みつる(文・写真)東京都出身20歳過ぎでボディビルに出合い池袋にあるジムへ通う。昭和の終焉に「本場でトレーニングしたい」と決意し渡米。20年間アメリカで暮らす。在米中はリポーター、そして写真家として活躍、93年にはマスキュラーデベロップメント誌のチーフ・フォトグラファーとして年間契約。96年から始めたビデオ「オリンピアへの道」は選手から「大会自体よりもこのビデオに出たい!」と評判に。2008年に帰国し現在は静岡県内の山中に暮らす。1992年Mr.ロサンゼルス・ライト級優勝。元気の源