ブックタイトルKentaiNEWSvol226

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概要

KentaiNEWSvol226

やると痛めるんですよ。そこであるとき、ふと気が付いたんですね。やっぱり『年相応のことをやらないといけないんだ』とね。そこで60歳になった頃からは、扱う重量も強度も落してやるように変えました。M『年相応にして一生涯』ということなんですね、納得です!最後に中尾先生の元気の源がどこからやってくるか教えて下さい!Nそれは『意識』ですよね、やっぱり。『人からどう思われているか』とか『自分はボディビルの世界でどういう立場にいるか』とか。全ての自分に対する意識がベースだと思います。この年になったら『もういいや』と思ったらおしまいですよ!服装にしてもそうでしょうし、私は審査員紹介で呼ばれても、胸を張って舞台に立てる意識があります。同じ仲間、年齢の人でも、腰が曲がっている人、お腹が出ている人、色々いらっしゃいます。でも、そうはなりたくない。そのためには最低限努力しておく必要があると思っています。穏やかな口調とは裏腹に、ポージング理論やトレーニングに対する想いがとても熱く伝わってくるインタビューでした。一番近い所で選手をしっかりと見ている目には、見極めることに特化した研ぎ澄まされた神経が通っていることが感じられました。「年相応」でありながら「意識」を高く保ち、日々の努力を忘れないことが「元気の源」であるように感じました。ありがとうございました!一番背の高いクラスでベスト3に入りました。そして、1967年の大会だったと思いますが、初めて東西の協会が融合して全国統一大会を開催する運びになったんですね。私は『西高東低の西で3位に入っているんだから屁でもない』と思って出たら、なんと予選落ちしてしまったんですよ!かなりの精神的ダメージを負ってしまい、1ヶ月トレーニングができなかったのは今でも辛い思い出ですね。1968年、23歳のときに気を取り直して4回目に出場したMr.日本で3位になりました。MMr.日本で3位に入ったときには西の顔だった杉田、重村、宮畑選手よりも上位だったんですね!その後も順調に順位を伸ばしたのでしょうか?N3位になった翌年の69年(24歳)には4位に順位を落しました。その頃から仕事も始めたのでトレーニングがそれ程できていなかったんですね。70年(25歳)には、仕事も忙しくなり、ろくにトレーニングできていなかったんですが『京都の選手が居ないから出てくれ!』と請願され、付け焼き刃なトレーニングで出場しましたが、やっぱり世の中甘くないんですね、11位まで順位を落とす結果となりました。MMr.日本で3位にまでなっていながら、実に勿体ない感じですね。審査委員長にはいつからなられたのでしょう?N審査委員に関しては、もうかなり長いことやっていてはっきりしたことは覚えていないんですよ。かなり昔から副審査委員長はさせて頂いていました。重村さん、酒井さん、政枝さんに次いで審査委員長になり、その後も審査委員長を15~16年やらせて頂いています。その間にも、京都の役員も長いこと続けましたね。同時に、日本連盟の役員、専門学校の講師と何足ものわらじを履いていたので、どこかでひとつずつ削っていくしかないと思い、N高校1年のときにトレーニングを始めたんですよ。私には兄が二人いまして、長男は大学で重量挙げを、次男が高校で柔道をしていました。そんな関係で、自宅にセメント製のバーベルがあったんですね。それを見よう見真似でやったら、もの凄くカラダが変化したんです!胸囲が1年間に10㎝ずつ、3年間増え続けました!そもそも自分のカラダが華奢でイヤだから始めたんですよ。中学1~2年の時に、海水浴へ行く途中、キャップを被っていたら女の子に間違われてしまったんです。そんなことが度々ありましたね。M『自分を変えたい』という強い思いが、本当に力になったんですね。それからどうなりましたか?N高校1年のときには自宅でトレーニングし、2年になったときに京都で唯一のジムがあり、そこに通い出しました。その当時日本ではまだトレーニングに関する資料がなくてアメリカの雑誌などを参考にしていました。ショルダープレスやベンチプレスなど自己流でやっていましたが『間違っていなかった。自分で工夫ができていた』と確認できましたね。M大会出場に関して聞かせて下さい。N1965年に20歳で大会デビューしました。ショートとトールの2階級があって、私はトールで6位入賞して、初出場だったこともありそこそこ注目されました。その当時はね、日本のボディビル連盟は『西日本の全日本ボディビル協会』と『東日本の日本ボディビル協会』に別れていて、西の全日本協会には杉田茂、重村洵、宮畑豊などの選手がいて選手層が厚く、西高東低というバランスだったんですよ。私は京都の選手だったので、全日本協会の方に所属しており、確か身長差で3クラスあったと思いますが、1966年には5年くらい前にアキレスを譲渡しました。仏像彫刻が基礎Mそして2018年に、九州医療スポーツ専門学校部長として初めて京都を離れて小倉へ移られたんですね。審査に関わって長いですが、ボディビルにおけるポーズなどに関して聞かせて頂けますか?N私のポージングの基礎になっているのは、仏像彫刻です。今でも審査委員講習会などでいいますが『ポージングはバランスが全て』です。全方位から見てバランスが取れていないと完成とはいえないと思います。『どこかおかしいな?』と思うポーズは、やはりバランスに欠けるところがあるもので、バランスの取れていないものは美しくありません。ある意味持って産まれたものかもしれませんが、持って産まれなくとも『良いものを見ること』によって養うことができることでもあると思います。動画でも静止画でも構いませんから、良いものを見てインプットすることです。M仏像彫刻ですか。奥深いですね。また中尾さんは現在専門学校で『生涯スポーツ』について普及活動をされていますね。N大会出場はなくなったけれども、ジムのオーナーとしてトレーニングはしていました。ジム・オーナーというのは、やはりひとつの見本だと思います。なので、かなりのトレーニングは積んでいましたが役員としてのウェイトが重くなってくると、そこまではできなくなってしまいましたね。1ヶ月できても次の1ヶ月は何もできないというような感じです。しっかりしたトレーニングが継続してできないので、自ずとカラダと力と、その全てが落ちていってしまったんです。その頃50代後半だったと思います。でも、筋肉には昔やっていた頃の記憶が残っている。そこでまたやる。ところが、元気の源●岡部みつる(文・写真)東京都出身20歳過ぎでボディビルに出合い池袋にあるジムへ通う。昭和の終焉に「本場でトレーニングしたい」と決意し渡米。20年間アメリカで暮らす。在米中はリポーター、そして写真家として活躍、93年にはマスキュラーデベロップメント誌のチーフ・フォトグラファーとして年間契約。96年から始めたビデオ「オリンピアへの道」は選手から「大会自体よりもこのビデオに出たい!」と評判に。2008年に帰国し現在は静岡県内の山中に暮らす。1992年Mr.ロサンゼルス・ライト級優勝。09