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概要

KentaiNEWSvol228

M 今後の予定や目標を聞かせて下さい!T 今年は12月にアジア大会、来年はカナダのトロントで開催の世界大会に出場を予定しています。2021年には関西でワールド・マスターズ・ゲームスがあり、そのときに私は90歳になりますので、それまではスパイクを履き続けようと思っています! そのときには個人での参加ももちろんですが、リレーを組みたいと思っています。リレーは日本国内での大会の場合、各都道府県で組まないといけません。しかし、世界大会の場合は都道府県の枠組みを超えて組むことが可能になります。つまり『チーム日本』としてリレーが組めるんです。M90クラスで、是非400mリレー、或いは4×400mのマイル・リレーを組んで世界記録更新を果たしたいと考えています。これは私が勝手に呼びかけ人になり、日本マスターズの協力も得て日本のどこの誰がどれくらいの記録で走っているか調べ、作戦を練っているところです。非常に楽しみにしています! 梅雨の青森で天候が気になる中、普段の練習を見せて頂きましたが、そのスタートダッシュは88歳とはとても思えない迫力、そしてスピードでした!世界記録保持者はマジでスゴかったです!そして、世界マスターズ陸連が提唱しているというエイジ・グレードに従って作成した表には過去のタイムが細かく示されており、これを基にまだまだ衰えを知らない走りを実践していて、この表にこそ「元気の源」があるように感じました。ありがとうございました!隣りの浪岡町(現青森市)で行なわれた大会に、100m走と走り幅跳びにエントリーしました。5~6人で一斉に走りましたが、その中に国内有数の先輩スプリンターがいたんです。『こりゃ参ったなぁ、どうやって走ろう・・・』と思いました。『よーい、ドン!』で走りましたが、たった100mなのにその先輩のゼッケンがどんどん遠のいて行くんですよ!相手は国内有数のスプリンターですから負けて当たり前なんですけれど、かなりのショックでしたね。これが初出場した時の記憶として今も強烈に焼き付いています。100m走とともにエントリーした走幅跳は、100m走の結果がショックで棄権してしまいました。私の初舞台は、まさにほろ苦スタートだった訳です。M ひょっとしたら初出場で止めてしまうかも知れなかったんですね! その後も続けてどうなりましたか?T タイムは年齢の推移と共に下がるかと思ったら、逆に続けたことによる結果なのか上がって行きました。『俺に向いているのかも知れない』と思い、続けて行く決心をしました。そんな折に『エイジ・グレード』という世界マスターズ陸上競技連盟が開発した『年齢や性別などを考慮し、もしも全盛期だったらどのような記録になるか換算してくれる指標』があることを発見したんです!このエイジ・グレードで自分の記録を客観的に見ることができます。自分の記録を見直してみると、日本記録を狙えるような感じになっていることが分かったんです。そして実際に日本記録が出たんです!平成13年7月、70歳で初めて世界マスターズに出場したオーストラリア・ブリスベンでの400mでした。日本マスターズ陸連でも、現在このエイジ・グレードを取り入れています。参加選手が優勝した場合、もちろで直ぐに会員登録したのがはじまりです。M 偶然に新聞の記事を見てマスターズ陸上に加盟なさったんですね。陸上は元々やられていたのですか?T 特に陸上競技が得意だというわけではなく、小学校の頃は運動会で他人の背中を見て走ったことがないという程度の変な自負があったんです。当時は戦争中ですから、生徒といえども何かあればいつでも戦闘員になれるように常に体力と精神力を鍛えておかなくてはならない状況で、中1のときに体力章検定というものが行なわれました。100m走、2000m走、走り幅跳び、手榴弾投げ、土嚢担ぎ、懸垂の全6種目です。どの種目も初級、中級、上級という評価がなされ、100m走の場合は初級16秒、中級15秒、上級14秒という区分になっていて私は14秒で上級でした。100m走で上級の評価を得たということは非常に自信を得ましたし、後々陸上競技を始めるきっかけとなる人生に於いて『はじめての公式記録』でもあったんです。ですが、そのときには『よし!俺は陸上競技を始めるぞ!』などという考えに直結する訳もなく、戦争成功のために毎日を暗中模索し精一杯生きるだけでした。M 当時は太平洋戦争の真っ只中で、とても運動に力を注ぐというような環境ではなかったんですね。そしてその後小学校の教諭をされて、もうすぐ定年というときにマスターズ陸上を知り、始めることとした訳ですね。直ぐに競技会に出場されたんですか?T 会員にはなってみたものの『走る』とはいっても、何となくはイメージできますが、実際のところはどんなものか想像がつきませんでした。そして一年間走り込みをした上で、60歳になった平成3年に初出場を果たしました。青森市西ん優勝したことは讃えますが、その記録の質がどうであったか、エイジ・グレードで見たときにどうなのかを知るということを最近は盛んに推奨しています。M 非常に科学的なアプローチという感じがしますね。ところで、世界大会に10回出場し23個の金メダルを含む34個のメダルを獲得し、アジア選手権にも6度参加し26個の金メダルを含む32個のメダルを獲得して、現在世界記録を4つ保持してらっしゃいます。ご自身でどう思われますか? T  『ホントかいな?』って思いますね。しかし、タイムは嘘をつかないから、そういうことなんだなっていう思いですね。はじめた頃には100mに専念していましたが、200mや400mにも挑戦してみました。しかし、400mというのはスピードとスタミナの両方が必要な、本当に地獄を這いずり回るようなものだったんです。初めて400mに出場したときですが、競技場の都合が付かず高校の校庭でやったんですが砂地だったもので記録が出る訳がないような状況で『もう二度と再び400mは走らない!』と堅く心に決めて死ぬ思いでゴールすると、そこにいた友人が『この時計が間違ってなかったら大会新記録だなぁ』っていうんですよ。こっちは今にも死にそうな状態でしたから上の空で聞いていましたが、暫く経ってから『今さっきなんてった?!』と聞き返したんです。そしたら、その言葉通りの記録が出たんですよ!そんなことをきっかけに『これはもう少し工夫して走ればいい記録が出せそうだ』という感触を掴んだんですね。その後も、経験を積んでうまくいったのが世界大会に初出場した400mでの優勝です。このときは日本記録を3秒近く縮めて勝てたので夢じゃないかと思いました!元気の源自宅に50個近くあるメダルから、3つだけご持参頂いた。●岡部みつる(文・写真)東京都出身 20歳過ぎでボディビルに出合い池袋にあるジムへ通う。昭和の終焉に「本場でトレーニングしたい」と決意し渡米。20年間アメリカで暮らす。在米中はリポーター、そして写真家として活躍、93年にはマスキュラーデベロップメント誌のチーフ・フォトグラファーとして年間契約。96年から始めたビデオ「オリンピアへの道」は選手から「大会自体よりもこのビデオに出たい!」と評判に。2008年に帰国し現在は静岡県内の山中に暮らす。1992 NPC Mr.L.A.ライト級優勝。 11